国立国際医療研究センター病院 脳神経外科の歴史

1968年当時の国立国際医療センター全景
1968年当時の国立東京第一病院全景

 1945年8月わが国は終戦を迎え、現在地にあった臨時東京第一陸軍病院は厚生省の所管に移され国立東京第一病院となり戦後の日本の模範病院とするということで再出発した。外科医長には出月三郎が就任したが、脳外科手術についてはすでに戦時中から主として戦時外傷に関する輝かしい業績をあげており、脳外科手術器具についても当時の水準としては十分に揃えられていた。

 1949年7月、東大清水外科から森安信雄医師(後の日本大学脳神経外科教授)が赴任し、全国の国立病院のなかで最初に「脳外科」の看板を掲げて診療を切り開いた。新たに「脳手術室」も設けられその後5年間に140例の脳手術が行われた。
森安は、東大生産技術研究所の糸川英夫教授と共同でインク式脳波記録器(従来はオシロスコープ)を完成させ、その後の日本の脳波計の発展の礎となった。
また、放射性同位元素I−131を用いたラジオアイソトープによる脳腫瘍の診断も我が国ではじめて行った。当時はシンチレーションカウンター以前の時代でガイガーミュラー管での測定であった。

 1954年清水外科から喜多村孝一医師(後の東京女子医科大学脳神経外科教授)が後任として着任、多くの脳外科の手術を一般化させた。朝倉哲彦医師もここから脳外科医を志すことになり、東京女子医科大学助教授を経て鹿児島大学教授に赴任する。なお当時の脳手術室の看板は改築に伴い鹿児島大学脳神経外科教室に大切に保存されている。

 1965年脳神経外科が正式な診療科として制度上認可され、1968年3月吉岡真澄が東大脳神経外科講師から脳神経外科医長として新たに着任した。脳神経外科は脳外傷を救う救急医療の中心として社会から期待され広く発展した。
吉岡は、パリ大学ピティエ・サルペトリエール病院での留学からの帰国後であり、脳の疾患に加えて、神経系として新たに脊椎・脊髄外科の重要性を広めた。しかもわが国ではじめてガスミエログラフィを実施し、従来の油性造影剤を用いた方法の欠点を補う方法として広め、今日の当院の脳神経外科としての診療の軸の一つである脊髄脊椎外科の礎を築いた。またバンサン(Vincent)型脳ベラをわが国に初めて導入しその後日本の脳神経外科手術の改善に大きく寄与した。

 1988年吉岡は副院長に昇任し、1989年には近藤達也が塚本泰、村岡勲についで脳神経外科医長に昇任した。

 1992年には精度の高い放射線治療機器の開発をめざしNEDOの支援の下、日立メディコ、放射線治療部とともにさらに全身の移動臓器に対しても可能なマイクロトロンを用いた定位的がん治療装置を完成させたが、現在さらに世界の水準を超える機器の開発にとりかかりこの方面の治療の国際標準化を目指している。
また基礎的には脳腫瘍の増殖のメカニズムの研究から増殖因子を追求する過程で、当科で培養でクローン化に成功したヒト脳腫瘍株NMCG−1から新たに増殖因子としてFGF−9(Glia Activating Factor)を武田薬品中央研究所と共同で発見した(J Biol Chem 1993; 268(4): 2857-64)。FGF-9は神経系の細胞(グリア細胞、神経細胞)の増殖に関与するだけではなく血小板の増殖にも作用するが、現在その神経生理学的作用を中心に研究を続けている。

 1998年4月からは救急部が本格的に稼動し頭部外傷、脳血管障害などの救急医療に24時間体制で脳神経外科スタッフが一丸となりその治療に専念してきた。2005年以降の過去5年間の手術件数は302→251→264→278→334件と着実に増加しており最近では救急手術が約6割を占めている。脳動脈瘤の手術症例は年間40〜50件、血管内手術症例も放射線診断部の協力のもと年間5〜10例ある。脳腫瘍の手術症例は年間20〜30件であるが、当科は悪性脳腫瘍の治療について、外科的摘出を容易ならしめる方法として1979年より術前照射法を広く提唱し今日に至るまで継続してきた。とりわけ髄芽腫、悪性奇形腫の治療に画期的効果を残している。また頚椎疾患の治療の過程での厳密な観察から新たに自律神経症状の発現の仕組みの解明が鋭意進められている。

1971年〜2010年の国立国際医療センター全景
1971年〜2010年の国立国際医療センター全景

現在の国立国際医療センター
現在の国立国際医療研究センター正面

 以上のように当科は、常に患者さんを中心とした臨床を尊重する診療体制のなかで、さらなる医療技術の改革、臨床症状の研究、基礎研究の発展へと広がって今日に至っている。

注:上記文中いずれも敬称は略させて頂きました。  文責 原 徹男

▲ページ最上段へ